ガンズ・アンド・ローゼズが、オリジナルメンバー (85年から90年までの活動期間に、ただ1枚のスタジオ・アルバムと破壊の爪痕を残した、爆弾5人組)の何人かで再結成するのではという噂が飛び交っている中、4月に開催されるコーチェラフェスのヘッドライナーとして発表された。
このいつ爆発してもおかしくないバンドの30年の歴史は、セックスとドラッグとケンカと暴動と臨死体験とピューマと女の平手打ちとコカイン舌とケンタッキー・フライド・チキンのバケツを頭にかぶった謎の男に彩られている。
それでは、ロック界きってのクレイジーなバンドのクレイジーなエピソードベスト50をお届けしよう。
1985年6月:イジーとダフ、ふざけてバスドラムを隠す
スラッシュは自伝の中で、スティーヴン・アドラーの最初のトライアウトとして行われたガンズ・アンド・ローゼズの悪ふざけについて述べている。「スティーヴンが小便をしに行くと、イジーとダフがバスドラム1個とフロアタム1個とラックタムを何個か隠した。戻ってきたスティーヴンが座って、何かが足りないと気付く前に次の曲のカウントを取り始めた。『おい、バスドラムが1個ないぞ?』と言って、トイレに行くときに落としたかなあという感じで探し始めた。(略)そのバスドラムがスティーヴンの元に戻ることはなかった。あいつにとって人生最良の出来事だった」
1985年6月7日:ザ・ヘル・ツアー
バンドのファースト・ツアーとなる“ヘル・ツアー”は、まさに地獄のツアーだった。フレズノから北へ2時間のところでバンドを乗せた77年型オールズモビル(とレンタカー)が故障し、メンバーは車を置いてシアトルまで40時間ヒッチハイクした。ギターだけを携えて。バンドは何本かのライヴに間に合わず、やっと着いたかと思うとアンプを借りて演奏するありさまだった。
1985年6月:ガンズ・アンド・ローゼズ、契約前に死にかける
ファースト・ツアーを終えロサンゼルスへ戻る途中で、バンドの車は大事故に遭った。交差点で、メンバーを乗せたダフのトヨタ・セリカの側面に時速60マイルで車が突っ込んできて、ドラムのスティーヴン・アドラーが足首を骨折した。「ダフの車は大破し、俺たちも同じ目に遭うところだった」とスラッシュは自伝の中で述懐している。「結成直後に一緒に死にかけるなんて、皮肉な運命のいたずらだ」
1985年夏:ガンズ・アンド・ローゼズ、ロサンゼルスの路地 を悪の巣窟に変える
「俺たちはドラッグを売った。女を売った。女がロフトで男とヤッてる最中に、俺たちは女の財布をまさぐった」と、イジー・ストラドリンは伝記『ウォッチ・ユア・ブリード:ザ・サーガ・オブ・ガンズ・アンド・ローゼズ』の中で述懐している。「マネージメントだよ」 - ロサンゼルス市当局は、乱痴気騒ぎの限度を超えたヘロイン、ポルノ、偽造ドラッグ、買春の黒い噂がはびこる場所として、バンドが住む路地を“619番地”に指定した。
1986年2月28日: ガンズ・アンド・ローゼズ、契約前にキメる
伝記の著者スティーヴン・デイヴィスによると、ゲフィン・レコードへの顔見せとなるトルバドールでのライヴに備え、アクセル以外のメンバー全員が酒を飲み、ヘロインを打ち、コカインを吸った。にもかかわらず、ゲフィン・レコードの代理トム・ズータウはバンドを気に入ったようだった。1カ月後、バンドはゲフィン・レコードと契約し、スラッシュは前金のほとんどをドラッグにつぎ込んだ。
1986年3月26日:アクセル、レコード会社との契約をサボる
ゲフィン・レコードとの契約の日に、またもアクセルは癇癪を起してしまった。コンタクトレンズが見つからないと、彼は怒り狂って家を飛び出した。契約書を読ませないように誰かが仕組んだと考えたのだ。スラッシュとマネージャーのヴィッキー・ハミルトンがコンタクトレンズを見つけた(床の上とズボンの中に)。そして、道の先に、瞑想するかのようにウィスキー・ア・ゴーゴーの上にあぐらをかいて座っているアクセルを発見した。レーベルは待たされ、予定時刻を2~4時間過ぎてから契約を続けた。「誰も腹を立てませんでした。いつものことですから。毎日こんな感じでしたよ」と、ハミルトンはデイリー・メール紙に語った。
1986年4月5日:二日酔いのアクセル・ローズ、ウィスキーでのライヴ前にスティーヴン・アドラーを殴る
ソファーで眠っていたアクセルは、スティーヴン・アドラーに腹を立てた。ガラス瓶を片づけていただけか、アクセルを起こそうと瓶で殴りかかろうとしたかは定かではない。アクセルはコーヒーテーブルを投げ飛ばし、スティーヴンを消火器に押し付け、続けて頭を何発も殴った。1時間後にはふたりの仲は元通りになっていた。
1986年5月13日: アクセル、セロニアス・モンスターとバトル
ラジズでのライヴで、最前列にいたボブ・フォレスト(LAシーンの雄、セロニアス・モンスターのリード・ヴォーカル)の恋人が、アクセルの顔にビールを何度も吹いた。アクセルは彼女を怒鳴りつけ、マイクスタンドで追いやった。フォレストはアクセルにドラムスタンドを投げつけて応戦した。ガンズ・アンド・ローゼズとセロニアス・モンスターは、その年のハロウィーンにUCLAで行われるレッド・ホット・チリ・ペッパーズのライヴで前座を務めることになっていたため、関係を修復する必要があった。時は流れ、現在は薬物依存症のカウンセラーをしているフォレストは、テレビ番組『セレブリティ・リハブ・ウィズ・ドクター・ドリュー』の第2シーズンで、依存症と戦うアドラーをサポートした。
1986年7月31日:アクセル、(また)遅刻する
バンドは、ヴォーカル抜きでティンバーズ・ボールルームのライヴを始めた。開始時刻を勘違いしたアクセルが1曲目「エニシング・ゴーズ」のエンディングまで現れなかったからだ。バンドは歌なしのギターソロでつなぐことを余儀なくされた。
1986年8月:スラッシュ、了解する
テールライトが壊れていたため、ウェスト・ハリウッドの保安官がスラッシュの車を停めた。そして、皮下注射針を見つけた。スラッシュは逮捕され、バンドのメンバー2人が保釈金178ドルを払った。
1986年10月23日:ガンズ・アンド・ローゼズ、アクセル抜きでアリス・クーパーの前座を務める
ガンズ・アンド・ローゼズは、アクセル・ローズ抜きでショック・ロックの旗手アリス・クーパーの前座をした。アーリントン・シアターに遅れて到着したアクセルが門前払いを食らったのだ。イジー・スタッドリンは、「ナイトレイン」の歌詞“ガラガラヘビのバッグを脇に抱えて”を“大きなゾウさんを脇にブラブラさせて”にするなど、歌詞をでっち上げた。スラッシュは観客にステージに上がって歌ってくれないかと頼んだ。苛立ちが収まらないバンドは、楽屋をめちゃくちゃに破壊し、鏡を全部割った。
1987年春:アクセル・ローズ、「ロケット・クイーン」にナマの音を加える
87年、アドリアナ・スミスは恋人に浮気された。その恋人とは誰あろう、ガンズ・アンド・ローゼズのドラマー、スティーヴン・アドラーだ。だから、アクセル・ローズが19歳の彼女をスタジオに招き入れ「ロケット・クイーン」の最後のオーバーダブを手伝ってくれと言ったとき、自分の役目がアクセルとセックスしてあらん限りの大声を上げることであっても構わないとスミスは思った。スミスにとって、これはアドラーに復讐するチャンスだったし、何より、酒に酔った彼女にはアクセルが「めちゃくちゃすてき」に思えた。アクセルは本番中、しきりにスミスに迫真の演技を求め、「いいぞ、アドリアナ、雰囲気出せ。演技はよせ!」と呻いた。スミスはこの行為に加担したことを後悔し、「罪悪感と羞恥心」からドラッグとアルコールに溺れた。彼女は今、ドラッグとアルコール依存症のカウンセラーをしている。
1987年7月21日:『アペタイト・フォー・ディストラクション』のジャケット、議論を呼ぶ
議論を呼ぶことにかけてのガンズ・アンド・ローゼズの才能は、プロとしてのキャリアがスタートした直後から抜きん出ていた。デビュー・アルバム『アペタイト・フォー・ディストラクション』のジャケットアートのオリジナルは、レイプ被害者に襲い掛かるロボットにさらなる巨大な敵が迫りくる様を描いた悪名高い、ロバート・ウィリアムズによる同名イラストを用いたものだ。「私の家にほかのイラストを見に来てジャケット用に選び直すようバンドのメンバーに言ったんです。厄介なことになるのはわかっていたので」と、ウィリアムズはリヴォルヴァー誌に語った。悽絶なイラストのため、このアルバムの取り扱いを拒否する小売店が多かった。オリジナルのアートワークはアルバムのパッケージの内側に移され、ジャケットは、今やシンボルマークとなったビリー・ホワイト・ジュニアによる十字架と骸骨のデザインに差し替えられた。
1987年9月:イジーとダフ、ファスター・プッシーキャットのドラマーをテープで縛り上げる
87年秋、ガンズ・アンド・ローゼズは、同じサンセット・ストリップの住人ファスター・プッシーキャットと共にヨーロッパとイギリスで8日間ライヴを行った。スラッシュは後年、ふたつのバンドの関係について、「お互いに一線を引いてたよ。友達って感じじゃなかった」と述懐している。しかし、ある晩、プッシーキャットのドラム、マーク・マイケルズがハンブルグのレーパーバーンへガナーに遊びに連れて行ってもらいたいとしつこく迫ってきた。それがダフとイジーの怒りを買い、マークは口と手足の自由をダクトテープで奪われ、そのままホテルのエレベーターに放り込まれホテルのロビーへ送られた。スラッシュは、「ホテルの従業員がマークを救い出した」と回想している。
1987年11月20日:アクセル・ローズ、警備員を殴る
アクセルにとってステージの上より楽しいことがあるとすれば、それはステージから飛び降りることだ。アトランタのオムニでのライヴ中、友人が警備員ともめているところを目撃したらしいアクセルは観客の中に飛び込み、警備員につかみかかると顔面に一発見舞った。彼はライヴを続行しようとしたが、「ミスター・ブラウンストーン」の演奏中に警察官に連行された。アクセルが楽屋で拘留されている間、バンドはローディーのビッグ・ロンに名曲ロックのカヴァー(「コミュニケーション・ブレイクダウン」と「ホンキー・トンク・ウィメン」)を歌わせて窮地をしのいだ。長いドラムとギターソロもあった。アクセルは暴行容疑を認め、罰金を払って裁判を逃れた。2006年になるまで、ガンズ・アンド・ローゼズが再びアトランタを訪れることはなかった。
1987年12月19日:アクセル、ボン・ジョヴィのそっくりさん呼ばわりされて暴れ出す
顔面に一発食らう覚悟があるなら、アクセルに「ボン・ジョヴィに似てる」と言ってみるといい。87年、両者を比較したファンにアクセルはパンチで応酬、シカゴのホテルのロビーで喧嘩になった。翌晩、アリス・クーパーのライヴの前座で、アクセルは本音を吐露した。「くたばれ、ボン・ジョヴィ」 と、アクセルは宣言した。2006年には、ボン・ジョヴィが、13年もアルバムを出していないのにいつもメディアに注目されているとローズを公然と批判して、敵対関係を煽った。
1987年12月:スティーヴン・アドラー、街灯とのバトルに敗れる
87年、アルバム『アペタイト・フォー・ディストラクション』がヒットしだした矢先、ドラムのスティーヴン・アドラーが殴り合いのケンカで目測を誤り街灯の柱を殴り、手を骨折した。ツアーが迫っていたので、バンドはピンチヒッターにシンデレラのドラマー、フレッド・コウリーを立てた。
1987年12月23日:スティーヴン・アドラー、ニッキー・シックスの命を救う
87年のクリスマスの2日前、スラッシュと当時の恋人とスティーヴン・アドラーは、モトリー・クルーのニッキー・シックスとフランクリン・プラザで大量のコカインを吸っていた。アドラーの回想によると、ヘロインを注射するために一度部屋を出て戻ってくると、ドアが重かったという。意識不明となり紫色に変色したニッキーの体がドアを塞いでいたのだ。アドラーはまだ腕にギプスをしていたが、肩でドアを押し開けて中に入った。スラッシュと恋人はそこにおらず、片腕でシックスをシャワーまで引きずって行った。水をかけても意識が戻らなかったので、瀕死のシックスの顔を腕のギプスで殴り、死の淵から引きずり戻した。翌日、アドラーが病院のシックスを見舞いに行くと、「スティーヴィー、きのうの夜何があった? 顔が死ぬほど痛いんだ」と訊かれたという。
1988年2月2日:アクセル、リッツの観客に飲み込まれる
MTVで放映された、現在は閉店しているニューヨークのリッツでの88年のライヴは、きわめて初期のガンズ・アンド・ローゼズの姿を捉えている。その晩のパフォーマンスでもっとも危険だったのが「パラダイス・シティ」で、アクセルがひしめき合う観客の海にダイヴした。その避けがたい混乱から、アクセルは3人の舞台スタッフの手によって引き上げられた。ようやく浮かび上がったアクセルは、シャツを着ておらず、アクセサリーもなく、左手首を気にする様子から判断するに、ひっかかれたようだ。ダフが叫ぶコーラスのハーモニー、そしてスラッシュがステージに寝そべって弾く激しいギターソロなど見せ場も満載で、このデカダンなアンセムのベスト・ライヴ・テイクとなっている。
1988年12月:アクセル、日本でホテルの部屋に閉じこもり、数日間誰とも口を利かない
アクセルには躁鬱の気があり、遅刻の常習犯で、何の前触れもなく出て行ったりルールを破ったりすることで知られている。(ストラドリンが飛行機で起こした騒動がまだ尾を引いていた)日本ツアー中、気難しいリード・ヴォーカルはホテルの部屋に閉じこもり、数日間誰とも口をきこうとしなかった。『ガンズ・アンド・ローゼズ「生きた伝説」』によると、アクセルは自分で頼んでおきながら、指定した時間に起こしにきたスタッフが気に入らないと言って容赦なくクビにしたという。
(※ 原文では 1989年8月28日 となっていますが、実際に来日したのは1988年12月なので、たぶん日付は誤り。訂正しておきます。尚、本文中の時系列が合わない部分は括弧で囲んでおいた)
1989年夏:ザ・スパゲティ・インシデントの真相
ガンズ・アンド・ローゼズの93年のカヴァー・アルバム『“ザ・スパゲティ・インシデント?”』のタイトルは、アクセル・ローズとスティーヴン・アドラーの間に起きたフード・ファイトに由来しているとする説が一般的だが、ダフ・マッケイガンがライターのギャヴィン・エドワーズに語ったところによると、89年にバンドがシカゴに滞在した際、コカイン中毒のアドラーがコカインをしまっていた冷蔵庫の横にバンドのイタリア料理のテイクアウトボックスがあったことに由来するそうだ。「彼は隠してある物を『スパゲティ』と呼んでいました」とマッケイガンは語った。バンドから追放される原因となったドラッグ問題の責任はバンドにあると、アドラーが93年にガンズ・アンド・ローゼズを相手取って起こした裁判の供述調書でも、その言葉が用いられたという。顔色ひとつ変えない弁護士に「スパゲティ・インシデント(スパゲティ事件)についてお聞かせください」と尋ねられたマッケイガンは、あまりに滑稽な質問がおかしくてたまらなかった。これがアルバムタイトルの誕生秘話だ。
1989年:スラッシュ、幻覚を見て血を流しながら裸でゴルフリゾートを駆け抜ける
89年のワールドツアーが終わり、ガンズ・アンド・ローゼズはロサンゼルスで休暇を取った。ジャック・ダニエルズ以外にバンドを縛りつけるものは何もなく、スラッシュのドラッグ問題は悪化した。「それが、89年から91年まで続く、長い悪夢のようなヘロインへの執着への始まりだった」とスラッシュは自伝で述懐している。そして、幻覚を見たスラッシュは、血を流しながら裸でアリゾナのゴルフリゾートを駆け抜けた。ヘロインとコカインを大量摂取した後、「ヘビのようなドレッドヘア」をした「人喰い生物たち」がマシンガンと注射器を持って追いかけてきた、とスラッシュは回想している。怪物と戦おうとして、スラッシュはガラスのドアをぶち破ってくぐり抜け、自室へ逃げ帰った。怯えた裸のスラッシュはメイドを“人間の盾”にして、ホテルのロビーを駆け抜け最後の盾となる芝刈り機の陰に隠れた。彼は警察に人喰い生物の襲撃の詳細を説明したが、「まだハイな状態だったので、冷静に話すことができなかった」そうだ。
1989年8月:「ワン・イン・ア・ミリオン」、人種差別的・同性愛嫌悪的中傷で世界に衝撃を与える
ティッパー・ゴア、ボーイ・ジョージ、アーセニオ・ホールなどの有名人がそろって「ワン・イン・ア・ミリオン」を糾弾した。事実、ショーン・ペンが擁護した以外、誰もがこの曲を非難した。「ワン・イン・ア・ミリオン」の歌詞は不適切な内容は否定できない。歌詞の一節でアクセルは“ニガー”と呼ばれる集団に“うせろ”と吐き捨て、“移民やオカマ”は“リトルイランを築いたり”“やばい病気を広げたり”するために“俺たちの国へ来る”と主張した。その上、ローズには非常に挑発的な瞬間をさらに挑発的な方法で説明する才能があった。人種差別発言については、「黒人同士が“ニガー”って呼び合ってるのに、なんで白人が同じ言葉を使うと急に差別だって騒ぐんだ?」と、性差別表現については、「ホモセクシュアルに何度かひどい目に遭わされたんだ。(略)(でも)俺に害が及ばなければ、やつらが何をしてもかまわない」と話した。また、『GN’Rライズ』のジャケットに「この曲の内容は非常にシンプルで、ごく世間一般なものです。気分を害される方がいたらお詫びします」と、謝罪にならない謝罪を掲載した。
1989年8月27日:イジー、飛行機内でのトイレトラブルで逮捕される
ロサンゼルスからインディアナポリスへ向かうフライトで、リズムギターのイジー・ストラドリンが機内調理室で放尿した。「年寄りどもの真ん中で飲んでたんだ。タバコを吸ってたらスッチーが注意しに来たから、“失せろ”って言ってやったよ」と、イジーは語った。「相当飲んでたから、小便が我慢できなかったんだ。トイレには先客がいてさ…1時間は待つと思ったよ。だから、ゴミ箱に用を足したんだ」 - フェニックスで、イジーは待ち構えていた警察官に、禁煙エリアでの喫煙、搭乗客への卑猥な仕草、およびスチュワーデスに吐いた暴言による公序良俗違反の容疑で逮捕された。「到着したと思って外に出たら、おまわりが10人もいてさ… “ゲッ! またやっちまった” って感じだったな」
1989年9月6日:ヴィンス・ニール、MTVビデオ・ミュージック・アワードでイジーに殴りかかる
MTVビデオ・ミュージック・アワードでガンズ・アンド・ローゼズとトム・ペティーが「ハートブレイク・ホテル」を演奏した後、モトレー・クルーのヴィンス・ニールが客席から飛び出し、イジー・ストラドリンの顔面めがけて殴りかかってきた。イジーは交わしてニールの指輪で顔を切っただけで済んだが、わだかまりは消えなかった。ニールがバンドに公開決闘を申し入れた際、アクセルはメディアを通して「ヴィンス、どれがいい? ピストルかナイフか拳か? 好きなのを選べよ。構わねえから」と言った。