ガンズ・アンド・ローゼズが、オリジナルメンバー の何人かで再結成するのではという噂が飛び交っている中、4月に開催されるコーチェラフェスのヘッドライナーとして発表された。
このいつ爆発してもおかしくないバンドの30年の歴史は、セックスとドラッグとケンカと暴動と臨死体験とピューマと女の平手打ちとコカイン舌とケンタッキー・フライド・チキンのバケツを頭にかぶった謎の男に彩られている。
ロック界きってのクレイジーなバンドのクレイジーなエピソードベスト50の後編をお届けしよう。
1989年10月10日:アクセル・ローズ、デヴィッド・ボウイを殴る
アクセル・ローズの短気は多くの敵を作ってきたが、デヴィッド・ボウイを殴ったときは、どうにか友だちになることができた。ボウイは「イッツ・ソー・イージー」のミュージックビデオ撮影現場に現れ、アクセルの恋人、エリン・エヴァリーにただならぬ関心を示した。アクセルは予想どおりの方法でその場を収めた。シン・ホワイト・デュークにパンチを食らわせ、セットから追い出したのだ。ボウイはすぐに謝罪し、ふたりはチャイナ・クラブへ繰り出し夜通し飲み明かした。
1989年10月18日: アクセル、ローリング・ストーンズのファンの前でバンドの解散をほのめかす
4日間にわたりロサンゼルス・メモリアル・コロシアムで行われたローリング・ストーンズのライヴツアーの初日の前座で、アクセルはバンドの恥部を露呈した。「ステージでこんなことしたくないんだ」 ― ヘロイン依存を批判した曲「ミスター・ブラウンストーン」のイントロでアクセルは言った。「でも、やれることは全部やったんだ。だから、このバンドの誰かさんたちが努力しない限り、このステージが最後のガンズ・アンド・ローゼズのライヴになるかもしれない。俺は、ここにいるのがミスター・ブラウンストーンとダンスしてるアホばっかりで嫌になっちまったんだ」 - アクセルの暴言の矛先となったスラッシュは後に、「あの頃は重度の麻薬中毒だったから、自分のことを言ってるってわかった。でも、あれがきっかけでアクセルを憎むようになったと思う」とVH1に語った。
1990年1月2日: スラッシュとダフ、アメリカン・ミュージック・アワードで悪態をつきまくる
ガンズ・アンド・ローゼズは、90年のアメリカン・ミュージック・アワードでふたつの賞を受賞した。2回ともスラッシュとダフ・マッケイガンがステージに上がり、検閲はディレイ・ボタンを握りしめるはめになった。バンドが『アペタイト・フォー・ディストラクション』で“フェイヴァリット・ヘヴィ・メタル・アルバム”賞をさらった際、スラッシュが「わざわざ来てクソみたいに2時間も遊ぶ」と授賞式の現場に対する彼の認識を表明し、そのあけすけなスピーチは中断された。授賞式の後半でガンズ・アンド・ローゼズが“フェイヴァリット・ヘヴィ・メタル・アーティスト”賞を受賞すると、さらに酩酊したスラッシュは、放送禁止用語を何度か口にした。最初の失言の後、すまなそうに「おっと」と(2回も)言ったにもかかわらず。翌朝、ABCのスポークスパーソンが「昨晩の放送中から今朝にかけて、番組内の不適切な発言に対するお叱りのお電話を多数いただきました」と発表した。
1990年4月7日:ガンズ・アンド・ローゼズ、ファーム・エイドで内部分裂
待望のアルバム『ユーズ・ユア・イリュージョンズ』IとIIの初お披露目となる、アクセルの故郷・インディアナ州で開催された、ウィリー・ネルソン主催のファーム・エイド4で見せたガンズ・アンド・ローゼズの興味深いパフォーマンスは、バンドがいまだ健在であることを示した。しかし、それは同時に、スティーヴン・アドラーの依存症を主な原因とするバンド内の亀裂の縮図でもあった。ドラム台の上に顔から落ちた後、アドラーはバンドで最後となるプレイをした。いずれにせよ、U.K.サブスの「ダウン・オン・ザ・ファーム」のカヴァーで見せた最高にご機嫌なジャムで、バンドは自身のパンクのルーツを世に示す機会を得た。そして(またもや)、アクセルはテレビの生放送で「クソ楽しかったぜ!」と別れの挨拶をして、ネットワークの検閲を挑発した。
1990年4月28日:アクセル・ローズとエリン・エヴァリー、ラスベガスで挙式
アクセルと長年の恋人エリン・エヴァリーの関係は転機を迎えた。90年4月28日、ふたりはラスベガスのキューピッド・イン・チャペルで結婚式を挙げた。アクセルに「スウィート・チャイルド・オブ・マイン」のインスピレーションを与えたエヴァリーは、48時間以内に婚姻無効手続きを行いたかったと伝えられている。わずか10カ月後の91年1月、結婚生活は法的に終わりを迎えた。「エリンと俺はお互いにひどいことをした」とアクセルは語った。「時にはお互いを思いやることもあった。俺たちの中の子どもは最高の友達だったんだ。でも、ほかの時には、俺たちはお互いの暮らしを粉々にぶち壊した」 - この暴力的な関係は、友人や目撃者には一目瞭然であったが、グレイト・ホワイトがアルバム『サイコ・シティ』でアクセルのパンチから逃れようとするエヴァリーの声の録音を使ったらしいとされ、広く知られることとなった。
1990年5月:スティーヴン・アドラー、ドラッグ中毒のためガンズ・アンド・ローゼズを解雇される
ガンズ・アンド・ローゼズのようなメンバーそれぞれが問題を抱えたバンドが、ドラッグ乱用を理由にメンバーのひとりを解雇すれば、深刻な問題になることは明白だ。90年の5月には、スティーヴン・アドラーがヘロインとコカインの使用をコントロールできない状態であることに、バンドは我慢の限界に達していた。ストラドリンによると、アドラーはこぼれたコカインを吸おうと床を嗅ぎながら這いずり回るような有り様だったという。後にアドラーは、自分にドラッグを教えておきながら中毒になったからといって解雇するのは不当だとして、バンドを相手に2600万ドルの損害賠償を請求する訴訟を起こした。
1990年10月30日:アクセル・ローズ、ワインの瓶とチキンによる暴行容疑で逮捕される
「隣にきちがいが住んでるんだ」 ― 隣人の頭を空のワインの瓶で殴った容疑で釈放されたアクセル・ローズはテレビ番組のレポーターに語った。ウェスト・ハリウッドの高級高層マンションでローズと同じ階に住んでいた被害者によると、ローズはほかにも彼女を目がけてチキン1ピースを投げつけてきたという。ローズの主張によると、ご近所トラブルは彼が越してきたときから始まり、さらにエスカレートしたという。結局、事件は免訴となったが、ローズはそのまま引き下がらなかった。彼がアルバム『ユーズ・ユア・イリュージョンI』のために書いた曲のタイトルはそのものズバリ、「ライト・ネクスト・ドア・トゥ・ヘル」(地獄はすぐ隣)だ。
1991年7月2日:セントルイス暴動
セントルイスに隣接したリヴァーポート・アンフィシアターで行われたガンズ・アンド・ローゼズのライヴが始まって90分、無許可で撮影している人物を最前列に見つけてアクセルは激怒した。そして、カメラを没収するよう要請したのを聞き入れなかった警備員に、さらに激高した。「俺が取り上げてやるよ!」とアクセルは叫び、観客の中に飛び込み、犯人を激しく殴りつけ、ステージへ戻った。「役立たずの警備に感謝するぜ。じゃあな!」と彼は宣言し、マイクをステージに投げつけ足早に立ち去ると、二度と戻って来なかった。その後の暴動で大勢のファンが負傷し、ガンズ・アンド・ローゼズはセントルイスから永久追放されることとなり、アクセルは4件の軽犯罪と1件の物的損害による訴因で5万ドルの罰金を科せられた。アクセルはその仕打ちに対し、『ユーズ・ユア・イリュージョン』IとIIのライナーノーツに“くたばれ、セントルイス!”と心のこもったメッセージを掲載して応えた。
(※ 原文では 6月2日 となっていますが、実際は7月2日なので、たぶん日付は誤り。訂正しておきます。)
1991年9月17日:アクセル、メディアに「リングに上がれ」と要求
大ヒットアルバム『ユーズ・ユア・イリュージョンII』に収録された「ゲット・イン・ザ・リング」(リングに上がれ)は、アクセル・ローズとメディアの浮き沈みの激しい関係の明るく描いた曲で、特にローズの怒りを買ったジャーナリストやメディアを名指ししている。実名を挙げると、ヒット・パレイダー誌の編集者のアンディ・セッチャー、ケラング誌のライターのミック・ウォール、サーカス誌の全スタッフ、ポルノ業界の実力者で身内のヒーローとして崇められた父を持つスピン誌の創設者のボブ・グッチオーネ・ジュニアだ。ローリングストーン誌のクリスチャン・ライトは、「リング」を『ユーズ・ユア・イリュージョンII』における“失敗作”で、その生意気で侮蔑的な態度を“バンドを中傷する人間を名指しで挑発しているが、卑怯な手段だと言わざるを得ない”と評した。しかし、時を経て本作は、ハードロック最強のディス曲として語り継がれている。
1992年8月8日:モントリオール暴動
その夜、ジェイムズ・ヘットフィールドはパイロテクニクスの事故で重傷を負い、メタリカのオリンピック・スタジアムでのライヴは突然中止された。その夜をやり直すことができれば、ガンズ・アンド・ローゼズはステージに上がるまで2時間以上待たされることも、音響トラブル(とアクセルの喉の痛み)で9曲演奏しただけで退散することもなかっただろう。そして暴動が起き、スタジアムに40万ドルの損害をもたらした2,000人以上のファンが周辺の市街地に流れ出し、窓を割り、店を強奪し、火事を出し、車を転覆させ、ようやく警棒と催涙ガスを持った警察官数百人に解散させられた。
(※ 原文では 1892年 となっていますが、実際は1992年なので、たぶん西暦は誤り。訂正しておきます。)
1992年夏:ローズ、ウォーレン・ベイティを口撃する
ウォーレン・ベイティは「ダブル・トーキン・ジャイヴ」は自分のことを歌っているのではと思う程度には自惚れが強い。そして、パリでの一夜も、同じようなものだ。イジー作によるこのロック・チューンを、アクセルは「遊び好きの(略)寄生虫だ(略)自分にはない生気を若いやつらから吸って生き長らえてるジジイ(略)ケチなチンピラ」と呼ぶベイティに捧げた。ベイティは、アネット・ベニングと結婚する前、アクセルの元恋人ステファニー・シーモアと短期間交際していた。そして、その俳優とスーパーモデルの関係がまだ続いていると考える向きもあった(少なくともアクセルは)。「よく聞け、変態ジジイ」タバコの煙を吐きつつステージをズカズカと歩き回りながらアクセルは牙をむいた。「お前がマドンナにはめられたって言うなら、俺はアネットに賭けるぜ。このクソ馬鹿野郎」 ― ベイティとベニングは4人の子宝に恵まれ、2015年3月に結婚23周年を迎えた。
1992年9月9日:アクセル、ニルヴァーナにしてやられる
92年、同室にいることを許されないふたりのロック・スターといえば、地球上でもっともキレやすい人類アクセル・ローズと、コートニー・ラヴという生き物だった。92年のMTVビデオ・ミュージック・アワードの舞台裏で起きた有名な事件(子どもの名付け親になってくれとラヴがアクセルに絡んだ)の前から、アクセルとカート・コバーンは、お互いをけなしていた。後のコバーンの回想によると、アクセルが彼の元へやってきて、「女房になめた口を利かせるな。さもないとお前らを表に引きずり出すぞ」と怒鳴った。すると、カートは信じられない行動に出た。コートニーに向かって「黙れ、クソ女!」と嫌味たっぷりに叫んだのだ。ニルヴァーナによる「リチウム」の演奏後、ドラムのデイヴ・グロールは「ハーイ、アクセル!」と繰り返し、アクセルをさらに刺激した。
1992年12月5日:アクセル、(妨害者の助けを得て)ブエノスアイレスのライヴを中止して観客に説教する
セントルイス暴動とモントリオール暴動の後も『ユーズ・ユア・イリュージョン』ツアーは敢行され、ガンズ・アンド・ローゼズはブエノスアイレスに混乱をもたらした。「ナイトレイン」を演奏中、ひとりのファンがステージに物を投げつけた。アクセルはライヴを中止し、その妨害者を呼びステージに上げ、「ここにはろくでもないバカがいる…ステージに物を投げればライヴが盛り上がるって勘違いしてるクソ野郎が」と、辛辣なメッセージを根気よく伝えた。そして、バンドの安全を脅かす者がいれば帰ると警告した。アクセルは妨害者に再び呼びかけ、「もし隣の奴が何か投げたら、ボコボコにしてくれ」と、再び警告した。ライヴは続行され、バンドは93年の大規模ツアーの締めくくりとして、再びアルゼンチンを訪れた。
1993年4月4日:ダフ、サクラメントで“小便の瓶”を割る
『ユーズ・ユア・イリュージョン』ツアー中、観客が投げた、スラッシュ曰く“小便の瓶”がベースのダフ・マッケイガンに当たり、中止になったライヴがある。「楽しいライヴをぶち壊したくはないんだ。俺も楽しいし。でも、誰かが投げた瓶がダフの頭に当たって、もうプレイできる状態じゃない」とアクセルは観客に告げた。「ごめんな。気をつけて帰れよ。もしクソ野郎を見つけたら、殺してくれ」
1993年6月16日:シャノン・フーン、裸でステージにピザを届ける
6月にスイスで行われたライヴで、ブラインド・メロンのシャノン・フーンが裸で、ステージ上のバンドにピザを届けた。ピザを片手に5万人の観客に大事なモノを見せつけた後、フーンは何事もなかったかのように座ってボンゴを演奏した。ゲスト・ドラマーのコージー・パウエル(ブラック・サバス、ジェフ・ベック・グループ)は、同年7月にブエノスアイレスで行われたライヴでフーンに倣ったが、服装はもっと地味で、ドミノピザの配達員のユニフォームを着用していた。
1993年11月23日:ガンズ・アンド・ローゼズ、シークレット・トラックでチャールズ・マンソンをカヴァー
アクセル・ローズは、アメリカで最も悪名高いサイコへの奇妙な親近感を常に示してきた。『ユーズ・ユア・イリュージョン』ツアーでは、しばしばマンソンの顔と“チャーリーはサーフィンしない”という文句がプリントされたTシャツを着ていた。しかし、カヴァー・アルバム『“ザ・スパゲティ・インシデント?”』のシークレット・トラックとして67年のマンソンの曲を追加したとき、彼は苦境に立たされた。この「ルック・アット・ユア・ゲーム・ガール」は皮肉にも、アルバム中数少ない穏やかな曲だ(ザ・デッド・ボーイズのカヴァー「エイント・イット・ファン」を参照のこと)。キャンプ・ファイヤーを囲むようなアコースティック・ギターとパーカッションだけで歌う、バンドのディスコグラフィーでも屈指のチルソングになっている。アクセルは後に、この曲がビーチ・ボーイズのデニス・ウィルソンによって書かれたものだと思っていたと主張した。また、「ルック・アット・ユア・ゲーム・ガール」の売り上げを環境保護チャリティーに寄付するという声明を出した。
1994年1月:スラッシュ、フォーシンズンズ・ホテルにピューマを持ち込む
落ち着いた生活に慣れるため、スラッシュはロサンゼルスに新居を購入し、そこで毒ヘビ、トカゲ、ネコ8匹、そしてカーティスと名付けたピューマを飼った。「そこに爬虫類園を作った」と彼は自伝の中で述懐している。「山ほどのヘビとその仲間だけの」 ― ノースリッジ地震が発生した際、スラッシュの自宅は大損害を被ったが、動物たちはすべて無事だった。彼はマリーナ・デル・レイのフォーシーズンズ・ホテルに避難し、カーティスをこっそり持ち込んだ。
1994年3月:エリン・エヴァリーによる告訴
アクセル・ローズ最高のラヴ・ソング「スウィート・チャイルド・オブ・マイン」のモデルとなったエリン・エヴァリーは、夫婦の関係と短い結婚生活は悪夢のようだったと証言した。エヴァリーは、脅迫と性的暴行で元夫を告訴し、ローズが彼女の行動を監視するためにアパートのドアを全部取り払ったことなど、不穏当な詳細を暴露した。また、彼がレッド・ツェッペリンのドラマー、故ジョン・ボーナムの亡霊に取りつかれていて、「俺たちの前世はインディアンで、俺は子どもたちを殺した。だから現世で俺に復讐してる」と信じていたと申し立てた。この訴訟は示談で解決した。
1998年2月10日:アクセル・ローズ、空港警備員を恐喝した容疑で逮捕される
98年、数年の沈黙を経て、活動休止状態のシンガーが空港警備員を恐喝したとしてメディアを賑わせた。アクセルは荷物を点検されるのを拒み、「今ここでぶちのめしてやる」と脅迫したと伝えられている。彼の音楽的嗜好は当時、テクノやインダストリアル、フューチャーに傾倒していたが、昔のように逮捕された。ゲフィン・レコードの広報はMTVに対し、「アクセルのバッグの中には誕生日プレゼントが入っていて、その中には友達がくれたガラス細工もありました。警備員がバッグの中を調べる様子を見て、壊されてしまうと思ったのです」と反論した。
2000年3月:バケットヘッドのバラード
リードギターの穴を埋めるため、チョッピングでも被り物でもスラッシュに匹敵するわかりやすい人物として、アクセルは、マスクとケンタッキー・フライド・チキンのバケットを被ったカルト・ギタリストのバケットヘッドとして知られるブライアン・パトリック・キャロルを採用した。バケットヘッドは、『チャイニーズ・デモクラシー』のレコーディングで、自分のパートはゴム製のニワトリでデコレーションした特注のニワトリ小屋で録音したいと主張した。アクセルのペットの子狼がニワトリ小屋で粗相をした時、バケットヘッドはフンの始末を拒否し、臭いがたまらなく好きだと言い切った。また、バケットヘッドはしばらくの間、小屋にテレビを持ち込み、ハードコア・ポルノを流し続けていた。これは、消えないオオカミのフンの臭いよりもはるかにアクセルを苛立たせたという。
2002年12月6日:フィラデルフィアでドタキャン
ラスベガスとロック・イン・リオでの復活ライヴの成功に後押しされ、アクセルはギターのバケットヘッドと新メンバーを携え北米ツアーに出発した。しかし、ツアーはフィラデルフィアで強制終了され、炎上した。気まぐれなアクセルのすっぽかし癖が顔を出し、ファンが暴動を起こしたのだ。アクセルはまだニューヨークにいてニックスの試合を見ているという噂がアリーナを駆け巡り、座席のクッションからクリスマスツリーまで、ありとあらゆる物がステージに投げ込まれた。2012年、フィラデルフィアのエレクトリック・ファクトリーで行われた追加公演で、アクセルは、「本当に体調が悪かったんだ。毛皮のコートやバスケの試合は関係ない」と弁解した。そして、「俺に非がないとは言わないよ」と付け加えた。
2006年5月19日:アクセル、トミー・ヒルフィガーにぶん殴られる
アクセルの喧嘩の経歴で最もくだらない殴り合いの喧嘩といえば、ニューヨークのナイトクラブ・プラムで行われた女優ロザリオ・ドーソンのバースデイ・パーティで、11歳年上のファッション・デザイナー、トミー・ヒルフィガーにこてんぱんに殴られたことだろう。アクセルが無断で恋人の飲み物を動かしたことに腹を立て、攻撃こそ最大の防御だと判断したヒルフィガーは、警備員が止めに入るまで何度もアクセルを殴りつけた。「彼は大きな指輪をしていました」ヒルフィガーは2010年に回想している。「彼の着けているアクセサリーはそんなものばかりで。やられたらおしまいだ。歯も目もなくなる(と思った)。だから、殴られる前に殴った。自己防衛です。今では友達ですよ」
2006年9月21日:アクセル、サンフランシスコのライヴで野次を止める
2006年、サンフランシスコのウォーフィールド・シアターでのライヴで、アクセルはひとりの態度の悪いファンと対決した。この事件でもっとも予想外だったのはおそらく、アクセルがきわめて“大人な”対応を見せたことだ。「スウィート・チャイルド・オブ・マイン」(セットリストの6曲目)の途中でアクセルが演奏を中断させたとき、いつもの癇癪でライヴが中止になるものと誰もが思った。しかし、アクセルはおだやかに犯人を茶化し、退場するよう促した。「そいつを追い出してくれ」アクセルは言った。「俺たちは楽しいライヴにしようと思ってる。ここにいるみんなだってそうだ。お前はどうなんだ?」そして笑って、「自分のことを俺以上の大馬鹿野郎だって思うか? 勉強になったな!」と付け加えた。
2010年3月2日:アクセル48歳、“ニューヨークで一番ホットなパーティ・ボーイ”に
2010年初頭、夜のマンハッタンの歓楽街にアクセル・ローズが頻繁に姿を現した。ニューヨーク・ポスト紙のゴシップ欄(ページ・シックス)は、「ニューヨークで一番ホットなパーティ・ボーイ」と見出しを付けた記事で、「この3週間、アクセルはニューヨークで話題の酔っ払いだ。スリムだった25歳のころのように、街のナイトクラブやバーを渡り歩いている」でと報じた。CBGBの跡地に建ったジョン・ヴァルヴェイトスの店など、市内で招待客限定ライヴを何本か行ったローズは、「ニューヨークシーンの冬の低迷期に発動した、たったひとりの刺激策」だとページ・シックスは報じた。彼の奇行は、ケヴィン・ベーコンやミッキー・ロークのような人物を魅了したライヴだけでは終わらず、当時流行っていたワン・オークやグリーンハウスなどのナイトクラブでアフターパーティを開いた。またあるときは、スピンという“ピンポン・ソーシャル・クラブ”の親善試合でスカーレット・ヨハンソンと対戦した。ニューヨーク限定で!
2010年8月27日:アクセル・ローズ、イギリスの音楽フェスに戦いを挑む
ガンズ・アンド・ローゼズはイギリスのレディング&リーズ・フェスティバルでヘッドライナーを務めたが、遅刻のためライヴの開始時刻が58分、終了時刻が35分遅れたと、ガーディアン紙が報じている。結果、フェスティバルの最大延長時間を考慮して、バンドの出番は短縮された。アクセルはこの措置に納得がいかず、「気をつけて帰れよ。おやすみ。それと、警察とプロモーターのみなさん - くたばれ! この戦争は終わってないからな」と言い残してリーズ・フェスティバルのステージを後にした。彼はツイッターで「俺たちのライヴを楽しみにしてるファンにイベント運営の都合で罰を与えるのは、ちょっと厳しすぎるし、第一不公平じゃないか。(略)レディング&リーズ・フェスティバルの俺たちの開始時間は、事実上俺たちには関係ないことだ」とつぶやいて有言実行した。この騒動にもかかわらず、レディング&リーズ・フェスティバルの主催者メルヴィン・ベンは、ガンズ・アンド・ローゼズの再登場を歓迎するとNME(ニュー・ミュージカル・エクスプレス)誌に語った。「ぜひブッキングしたいですね。でも、実現するかわかりません。クリスマス・カードももらえないかもしれない。個人的な問題はさておき、バンドは最高ですよ」