バンドとしての絆が崩壊に向かう中、世界を揺るがした『ユーズ・ユア・イリュージョン I &Ⅱ』その誕生秘話とは
軋轢が生まれる一方で、バンドとして成熟期を迎えていたアクセル・ローズとメンバーたちが生み出した歴史的名盤の発表から25年を経ても色褪せないその魅力に迫る。
1990年4月、ガンズ・アンド・ローゼズはオリジナルメンバーを擁したラインナップで最後となるライブを行った。その舞台となったファーム・エイドは全米にテレビ中継され、泥酔状態にあったスティーヴン・アドラーがドラムキットに向かってダイブするも、ターゲットに程遠いところに着地する無様な姿をアメリカ中の視聴者が目撃することとなった。お粗末なパフォーマンスに怒り心頭だったアクセル・ローズは、ステージを去る間際に「グッド・ファッキン・ナイト」という捨て台詞を放った。それはバンドが崩壊への道を歩み始めた瞬間だった。
メンバー間に軋轢が生まれる一方で、当時のガンズ・アンド・ローゼズはバンドとして成熟期を迎えていた。ファーム・エイドで披露された壮大な『シヴィル・ウォー』(アドラーの力不足を理由にアレンジされたバージョンだった)は、1990年〜91年にかけてバンドが制作する全30曲、収録時間2時間30分におよぶ大作『ユーズ・ユア・イリュージョン I &Ⅱ』で、ディスク2の冒頭を飾ることとなる。エネルギーに満ちたロック、ロック・オペラと呼ぶべきエモーショナルなバラード、淡々と進む退廃的な曲まで、様々なスタイルに挑んだ同作について、スラッシュは後に(「同じレベルとまではいかないまでも」と付け加えた上で)ビートルズの『ホワイト・アルバム』になぞらえている。恋人との破局を歌った3部作『ドント・クライ』『ノーヴェンバー・レイン』『イストレインジド』、そして女性を蔑視する『バッド・オブセッション』『バック・オフ・ビッチ』等を収録した同作を、スラッシュは「ガンズ史上最も自意識過剰な35曲」とした上でこう語っている。「平凡なバンドなら、これだけの作品を生み出すのには少なくとも4〜6年はかかるはずさ」本作がバンドが崩壊へと向かう中で産み落とされたという点は、皮肉にも『ホワイト・アルバム』と共通している。
1989年夏、シカゴのスタジオで行われたセッションで手応えを感じたバンドは、ほどなくして『アペタイト・フォー・ディストラクション』に続くセカンドアルバムの制作に着手した。他のメンバーとは別行動をとることが多かったイジー・ストラドリンは、アルコールへの依存を克服したばかりだったこともあり、とりわけ創作意欲に満ちていたという。「イジーは8曲くらい持ってきた。もっとあったかもしれない」ローズは1990年のインタビューでそう語っている。「スラッシュと俺は、それぞれアルバム1枚分に相当するだけの曲を持ち寄った。ダフ(・マッケイガン)は他のメンバーが持ち寄った曲をとことん研究した。結果的に俺たちは35曲くらい完成させて、そのすべてを世に送り出すと決めたんだ」アルコール依存を克服したことについて、ストラドリンは当時のインタビューでこう語っている。「危機感を感じ始めた時、自分にこう問いかけたんだ。『このままじゃお前はじきに死ぬ。こんなくだらないことで人生を終わりにしたいのか?』」
シカゴでのセッションは『イストレインジド』(ドン・エヴァリーの娘であるエリン・エヴァリーとローズの離婚がテーマとなっている)、荒ぶる『バッド・アップルズ』、閉塞感漂う『プリティ・タイド・アップ』等を生み出した。また『ゲット・イン・ザ・リング』、欲求不満を歌ったアンセム『デッド・ホース』、マッケイガンがこの世を去ったばかりだったニューヨーク・ドールズのジョニー・サンダーズに捧げた『ソー・ファイン』、そしてローズが「どうか俺のことを理解して欲しい」と懇願する、バンド史上最もパーソナルな10分に及ぶ大作『コーマ』等の原型も、このセッションの際に誕生したという。
『ライズ』のリリースから数ヶ月後の1990年1月、ガンズ・アンド・ローゼズはセカンドアルバムの完成に向けて本格的に動き始めた。1988年に原型が生まれ、後にルーマニアの孤児たちの支援を目的としたコンピレーションに収録された『シヴィル・ウォー』のアレンジに着手するも、ほどなくしてバンドはアドラーの薬物依存の問題と直面する。ヘロインに依存していたアドラーは、当時まともにドラムを叩くことができない状況だったという。「スラッシュにこう言ったんだ。『気分が悪くて、とてもドラムなんて叩ける状況じゃない』」アドラーは過去のインタビューでそう話している。「やつはこう返してきた。『レコーディングを延期する経済的余裕はない。今やらないとダメだ』」
弁護士の助言を受けアドラーを謹慎処分にしたバンドは、その数ヶ月後にアドラーを正式に解雇する。「ヤツはヘロヘロで、とてもバンドのドラマーを務められる状況じゃなかった」スラッシュはそう語った。「おまけに(クスリをやめようとしてると)俺たちに嘘をついていた。俺たちはヤツん家のトイレのシンクの下でクスリを見つけたんだ」
トラブルを経験しつつも、バンドはアルバム制作を続行する。ほどなくして彼らは、ストーンズを思わせるギターリフとトリッピーな歌詞でガンズ・アンド・ローゼズに引けを取らない人気を誇っていた、ザ・カルトのマット・ソーラムをバンドのドラマーとして迎え入れた。1990年4月に観たカルトのライブでのマットを、スラッシュは自伝でこう評している。「彼のプレイにはブッ飛ばされた」
時をほぼ同じくして、ローズはキーボーディストのディジー・リードをバンドに引き入れる。リードはメンバーたちとは旧知の仲であり、バンドがブレイクする前にはリハーサルスタジオで頻繁に顔を合わせていたという。1990年初頭、リードはガンズ・アンド・ローゼズの新メンバー募集オーディションを終えたばかりだった。半ばパニック状態でローズに電話をかけた彼は、自分がホームレスになるのは時間の問題だと嘆き、同情したローズの一存でバンドへの加入が決定したという。「俺は文字どおり彼らに救われたんだ」リードはそう話す。オリジナルメンバーたちが再集結した今日に至るまで、リードは一貫してローズと活動を共にし続けた唯一のメンバーとなっている。
バンドは新たなラインナップで再始動し、曲作りは順調に進んでいった。ソーラム加入後に完成させた最初の曲となったボブ・ディランのカバー『天国への扉』は、トム・クルーズ主演のレーシングムービー『デイズ・オブ・サンダー』(1990年発表)のサウンドトラックに収録された。「メンバーはみんな昼12時きっかりにスタジオにやってきた」ソーラムはそう話す。「全員がプロ意識を持って臨んでた。ひとつ曲を録り終えたら、近くのバーで軽く一杯だけやって、その後またスタジオに戻ってレコーディングを続けた」そのセッションではカヴァー曲が数多くレコーディングされ、いくつかは後に『ザ・スパゲッティ・インシデント?』に収録されている。ローズはそのうちのひとつ、ウイングスによる007のテーマ曲『死ぬのは奴らだ』のカヴァーを『ウェルカム・トゥ・ザ・ジャングル2』と評したこともあった。
バンドのルーツを辿るかのように、ガンズは『アペタイト・フォー・ディストラクション』、そしてそれ以前に追求したスタイルを再訪していった。後にスラッシュはスラップベースが印象的な『ユー・クッド・ビー・マイン』を「『イリュージョン』の一貫した方向性を意識するあまり、『アペタイト』の作風と似過ぎてしまった」と評しているものの、同曲は1991年発表の『ターミネータ−2』の主題歌に起用され、シングルとして発売された。またその頃、バンドが初のプリプロセッションを行った際にストラドリンが持ち寄った、2分半という潔いパンクトラック『パーフェクト・クライム』も完成をみた。
ガンズ・アンド・ローゼズのハードなイメージを守るために『アペタイト』への収録が見送られていたローズによるバラードは、紛れもなくアルバムのハイライトのひとつだ。『ドント・クライ』はローズがバンド結成後に書いた最初の曲だという。「あれはイジーの元カノについての曲なんだ」ローズはそう話している。「俺は当時から彼女のことがすごく気になってた。2人はその後破局を迎えて、俺はロキシーの外で彼女に自分の思いを伝えたんだけど、彼女は俺たちがうまくいかないことを知ってた。自分の道を進むために別れを告げた彼女を前に、俺はただ座り込んで涙を流した。そんな俺を前に彼女がこう言ったんだ。『ドント・クライ』ってね。その翌日にメンバーとスタジオに入った俺は、たった5分であの曲を完成させたんだ」
結果的に『ドント・クライ』は歌詞が異なるバージョンが、『ユーズ・ユア・イリュージョン』の両ディスクにそれぞれ収録される形となった。ディスク1にはローズの経験に基づいたオリジナル・バージョン、そしてディスク2には失恋の痛みが生々しく綴られるオルタナティブ・バージョンが収録されている。「俺は後者の方が気に入ってるんだ。オリジナルは俺にとってあまりにリアルだから」ローズは後にそう語っている。
1986年頃からローズが温めていたもうひとつのバラード、それが『ノーヴェンバー・レイン』だった。1988年のローリングストーン誌のインタビューで、ローズは同曲への強い思い入れをこのように表現している。「あの曲をイメージどおりに録れなかったら、俺はこの世界から引退するよ」彼は後に「『ノーヴェンバー・レイン』は、報われない思いにとらわれてしまいたくないという願いを歌った曲」と話している。『イリュージョン』のレコーディング・セッションが開始するまでに、バンドはギターとピアノだけで同曲のデモバージョン(中には18分に及ぶものもあった)を録っていたが、ローズはスタジオで同曲を慎重に磨き上げていき、キーボードを駆使した壮大なシンフォニーを書きあげた。
「あの曲のドラムパートはエルトン・ジョンの作風にインスパイアされているんだ」ソーラムはそう話す。「アクセルと一緒に(エルトン・ジョンの)『僕の瞳に小さな太陽』をじっくり聴き込んだ。2人でタムのフィルについて話し合った時のことは、今でもはっきり覚えてるよ」
アップテンポな『ザ・ガーデン』におけるスポークンワードのパートは、バンドと親交の深いアリス・クーパーが担当している。彼は1986年のナイトメア・リターンズ・ツアーにバンドを同行させたほか、1988年に再レコーディングされた『アンダー・マイ・ホイールズ』にローズとスラッシュ、そしてストラドリンの3人を参加させている。その数年後、ローズは真夜中の2時にクーパーに電話をかけ、アルバムへの参加を依頼したという。
「俺は仕事はサクッと片付けるタチなんだ」クーパーはそう話す。「アクセルがこだわり屋なのは知ってたけど、優れたヴォーカリストなら1時間もあればまともな歌が録れるはずなんだよ。だから彼にこう言ったんだ。『明日の7時なら少し時間が取れる。1時間で片付けよう』結局俺は2テイク録った。彼がいつもどれくらい録ってるのか知らないけど、俺のテイクは文句ナシだった」
ガンズ・アンド・ローゼズがレコーディングを行っていたスタジオの裏で、警察がごみ収集コンテナの中から切断された腕と首を発見した事件は、バンドが後に経験する闇を示唆していた。エネジーに満ちた『ダブル・トーキン・ジャイブ』で、ストラドリンは事件に言及している。「当時イジーはインディアナに帰省していた。警察がスタジオのそばで人体の一部を発見したニュースを耳にした彼はすぐさまこっちに戻ってきて、あの曲のオープニングのフレーズを録って曲を完成させた」ソーラムはそう話す。
アルバムの制作を進める一方でツアーに出ていたバンドは、以降も暴力にまつわるスキャンダルが絶えなかった。『ユーズ・ユア・イリュージョン』の制作中、ローズは妻のエリンから暴力を理由に離婚を申し立てられた。バンドのセントルイス公演ではファンともめたローズがステージを去ったことを理由に、観客が暴徒となる事態が発生したが、その後も似たケースがたびたび発生している。「控え室から出ると叫び声が聞こえて、担架で運ばれていく人や血まみれの警察官がうじゃうじゃいた。本当に気が狂っちまうんじゃないかと思った」スラッシュはそう語っている。
「俺たちがステージを去った後、オーディエンスは暴徒と化した」ソーラムは当時をそう振り返る。「客席から椅子やら金属片やらが投げつけられ、クルーは俺たちの機材を身を呈して守らないといけなかった。しまいには機動隊がやってきて、オーディエンスに催涙ガスを浴びせる事態になった。俺たちはステージに戻る用意ができてたけど、結局ステージ衣装のままバンに乗り込むしかなかった。シカゴに向かいながら、その夜に起きた出来事をひたすら反芻したあの時のことは一生忘れないよ。翌日のニュースで多くのファンが負傷したことを知って、俺は初めて事態の深刻さを理解したんだ」
シーンを一変させるニルヴァーナの『ネヴァーマインド』が発表される1週間前の1991年9月、『ユーズ・ユア・イリュージョン』は満を持して世に送り出された。アルバムは大ヒットを記録し、2枚の合計セールスは1400万枚に達した。「発表したい曲がごまんとある中で、全部を世に送り出す方法について考えないといけなかった」異例の2枚同時発売というケースとなった経緯について、スラッシュはそう語っている。「まだ2作目だった俺たちのアルバムに70ドル払うやつなんてそうそういなかったはずだからな」
その奇策は前例のない記録を打ち立てた。ガンズ・アンド・ローゼズは、同時発売の2枚のアルバムでビルボードの1位と2位を飾った史上初のアーティストとなった。「俺たちはあの作品に何もかもを注ぎ込んだ」ソーラムはアルバムについてそう語る。「音楽こそが俺たちのすべてだったんだよ」