2016年4月8日、ラスベガスで平和的終結を見た、ガンズ・アンド・ローゼズとニルヴァーナの確執を時系列で追う。
チーム・アクセル vs チーム・カート、全面対決から和解までの道のりとは?
アクセル・ローズとカート・コバーンには多くの類似点があった。ふたりとも田舎町の複雑な家庭に育ち、攻撃的で反抗的なロックによって後の人生を一変させた。
ニルヴァーナとガンズ・アンド・ローゼズは、どちらもパンクとメタルの境界線を曖昧にすることで名を成したが、ローズとコバーンは、互いをオルタナティヴ時代のロック・カルチャー戦争における敵同士だと認識していた。しかし、それももう過去の話だ。
2016年4月9日、ガンズ・アンド・ローゼズのラスベガス公演の直後、アクセル・ローズは、ケガをした自分のためにフー・ファイターズのツアーで使った豪華な椅子を貸してくれた元ニルヴァーナのドラム、デイヴ・グロールに向け、感謝のツイートを投稿した。絵文字と感嘆符をふんだんに使って。それでは、時に馬鹿馬鹿しく、時に愉快で、そして常に人々の関心を集めてきたニルヴァーナとガンズ・アンド・ローゼズの確執が、ついに終息を迎えるまでを時系列で見てみよう。
1991年~1992年:カート、ガンズ・アンド・ローゼズを中傷
アクセルはもともとニルヴァーナのファンで、『ドント・クライ』のミュージック・ビデオでニルヴァーナのロゴ入りの帽子を被っていたほどだ。しかし、その想いは彼らに届かなかったようだ。1991年、『ネヴァーマインド』のプロモーションで、カートは全力でふたつのバンドの違いを強調した。「俺たちは、みんながよく知ってるガンズ・アンド・ローゼズみたいな、何のメッセージも持たないバンドとは違う」と、カートはセカンズ誌に語った。その翌年には、「反乱とは、ガンズ・アンド・ローゼズのようなヤツらに立ち向かうことだ」と、シンガポールの雑誌に語った。
1992年:カート、ガンズ・アンド・ローゼズとのツアーを拒否
カートの挑発にめげず、アクセルはガンズ・アンド・ローゼズのツアーにニルヴァーナを同行しようと決めた。「ガンズ・アンド・ローゼズはメタリカとのスタジアム・ツアーを予定していて、俺たちにオープニング・アクトをやらせたかったんだ」と、デイヴ・グロールは後に回想している。「だから、アクセルはカートに何度も何度も電話してきた。いつだったか、空港を歩いてた時、カートが、"クソ! アクセル・ローズからの電話が鳴りやまねえよ"と言った」
1992年:アクセル、カートとコートニーを「いかれたジャンキー」呼ばわり
ついに、カートの口撃がアクセルを捉えた。アクセルは、いつものようにステージ上で、コートニー・ラブのドラッグ使用が原因で娘のフランシス・ビーン・コバーンが生まれながらにして欠陥を抱えているという噂を引き合いに出し、カートを口撃した。手始めにカートを「俗物」と呼ぶと、アクセルは「オルタナティヴ」という言葉を、「俺にとって、カート・コバーンとかニルヴァーナみたいなヤツを指すだけの言葉だ。ヤツらはただのいかれたジャンキーで、女房もいかれたジャンキーだ。もし、生まれた子どもが奇形だったら、ふたりともムショにぶち込むべきだ。俺はそう思ってるよ」と言って揶揄した。
1992年9月:MTVビデオ・ミュージック・アワードで修羅場
両チームの確執は、1992年のMTVビデオ・ミュージック・アワードでついに頂点に達した。バックステージで、アクセルと恋人(モデルのステファニー・シーモア)が、生後間もない娘を抱いて座っているカートとコートニーの傍を通り過ぎようとしたとき、コートニーがアクセルに、娘のゴッド・ファーザー(後見人)になってくれと言って絡んだのだ。アクセルはカートに「そのクソ女を黙らせろ、さもないとお前らを外に放り出すぞ!」と怒鳴った。するとカートは、信じがたいことに、コートニーに向かって「黙れ、クソ女!」と嫌味たっぷりに叫んだ(両チームのベース、ダフ・マッケイガンとクリス・ノヴォセリックも、バックステージで"不躾な言葉"を交わしている)。ニルヴァーナが『リチウム』の演奏を終えた後、ドラムのデイヴ・グロールはマイクに向かって「ハーイ、アクセル!」と繰り返し、アクセルをさらに刺激した。
1992年12月:カート、アドヴォケイト誌でアクセルを非難
LGBT(レズビアン・ゲイ・バイセクシュアル・トランスジェンダー)誌『アドヴォケイト』が行った有名なインタヴューで、カートはバックステージでのアクセルとの一件を事細かに語り、ふたたびガンズ・アンド・ローゼズを侮辱する発言をした。ミュージシャンとして、そして人間として。また、アクセルを「同性愛に理解のない、性差別主義者で人種差別主義者のクズ野郎だ。君たちはヤツの側にはつけないよ。俺たちの側にもね。こんな風に線を引かなきゃならないのは残念だけど、君たちにとって無視できないことだからね。あ、それと、ヤツらにはいい音楽が書けない」と評した。
1994年3月:カート・コバーンとダフ・マッケイガン、飛行機で談笑
ニルヴァーナのフロントマンが自殺する数日前のこと、シアトルへ戻る飛行機の中で、カート・コバーンは隣に座っているのがダフ・マッケイガンだと気づいた。ふたりのミュージシャンは、リハビリ、依存症、そして共通の友達の話をした。「家に帰る感じだなって話をしたよ」と、マッケイガンは後に語っている。「そう、彼は"家に帰るんだ"と言ってた」。マッケイガンはコバーンの家まで車で送ろうとしたが、申し出る前に彼の姿は消えていた。コバーンの伝記を書いたチャールズ・R・クロスは、伝記 『ヘヴィアー・ザン・ヘヴン』の中で、バンド同士は敵対関係にあったが、コバーンはマッケイガンに会えたことを喜んでいたと記している。
1994年:マット・ソーラム、カートの自殺を受けデイヴ・グロールへ弔意の電話
一気に火が付いたのと同じように、両チーム間の対立はみるみる収束していった。そして、1994年4月、コバーンの自殺を受け、少なくともひとりのガンズ・アンド・ローゼズのメンバーがニルヴァーナ側に歩み寄った。「カートが死んで、真っ先にマット・ソーラムから電話があった」と、グロールはテレビ番組『ザ・デイリー・ショー』でジョン・スチュワートに語った。「彼は“本当に残念だ。どうか気をしっかり持ってくれ”とメッセージを残してくれていた。何て粋な心遣いなんだ、と思ったよ」
2010年2月:ダフ・マッケイガン、ビデオ・ミュージック・アワードでの非礼をクリス・ノヴォセリックに謝罪
シアトル・ウィークリー紙に寄せたコラムで、ガンズ・アンド・ローゼズのベース、ダフ・マッケイガンは、1992年のMTVビデオ・ミュージック・アワードでの振る舞いについて謝罪した。「ニルヴァーナ側が俺たちを中傷してるのを聞いて、カッとなった」と、マッケイガンは書いている。「へべれけに酔ってた上にヤクでハイになってたから、自分に都合のいい声が聞こえた。そして、バックステージでクリス・ノヴォセリックに詰め寄った。自分をコントロールできなかったんだ。クリス、あのときは本当にすまなかった」
2010年4月:デイヴ・グロールとスラッシュ、『エース・オブ・スペーズ』でレミーをサポート
ふたりの仲を取り持つことができる人物が、レミーをおいてほかにいるだろうか。リヴォルバー誌主催のゴールデン・ゴッズ・アワードで生涯功労賞を受賞した際、モーターヘッドのフロントマン、レミー・キルミスターは、スラッシュのバンドに加わり、ゲスト・ドラマーにデイヴ・グロールを迎え、自身最大のヒット曲を披露した。この曲で共に熱演を繰り広げた彼らに、もはや敵対心は見受けられなかった。
2016年4月:アクセル、グロールの椅子を拝借
ガンズ・アンド・ローゼズの再結成は、ロサンゼルスでのウォームアップ・ギグでアクセルが足を骨折し手術するという、幸先の悪いスタートを切った。後に控えるツアーの日程を再調整する代わりに、アクセルは、デイヴ・グロールが足を骨折した際にフー・ファイターズのツアーで使用した豪華な椅子を拝借した。両チームの確執は、もはや完全に過去のものになったと言っていいだろう。コートニーに言いたいことがなければの話だが・・